記 事 |
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大洋手袋製造有限公司=本社・大阪府堺市浜寺南町3-10-1=の生産部門である大洋手袋有限公司・香港オフィスが開設されて約1年半になる。 厳しい経済環境下にありながら、同社から発信される製品は、日本市場1こ限らず世界市場へと販路の拡大が図られている。 そこで同社常務取締役神谷高締氏に、開設以来を振り返りながら、販売戦略等に関して寄稿してもらった。 当社はもともと、㈱オーシヤン貿易商会という貿易業を営む業歴30年の母体が、製造業である大洋ハンドバッグを設立し、製造販売業を進め、そして、大洋手袋製造有限公司という企画販売会社を設立したのですが、98年頃から、各社が各業態で独立しても十分な存在価値を見出せる様に、各社を切り離して業務を開始しました。 客観的に強い企業でなければ、グループとしての一層の相乗効果は得られません。 この社長の方針に沿って、香港法人に独自の営業機能を設け、99年10月からショールームを設置し、広く海外市場を視野に入れた再スタートでした。 1年4ケ月を経て振り返ると、香港にショールームを置いた事が良く機能しました。 今までですと中国まで入って、お客様に弊社中国工場にある企画開発室まで御足労をかけていたのが、香港で商談できる様になり、非常に便利になりました。 香港での商談は多く、開設以後、顧客来訪が重なり、毎週数件の顧客が来訪頂ける次第です。 海外顧客の来訪は、ある時期に集中するのですが、日本からの来訪は業種に沿って色々です。 この4半期の実績で言えば、大洋手袋製造有限公司のプロパー分及び別注分が40%、他社国内メーカー向けお取引が30%、海外取引が30%の比率で、結果的には観ね理想的な出来上がりでした。 遠路来訪頂いた方から、ご要望をひとつひとつお伺いしているうちに1年が過ぎました。 来期は、今期の経験を踏まえ、重要なお客様をより優先する体制を考慮しようと思っています。 競合先も含めた他社取引が増えた事も特徴の一つです。 我々は、生産部門の競争優位性を改めて認識しました。 だれでも、全てが出来るわけではありません。 当社としては、優位性の高いこの生産という機能に今後も経営資源を注力するべきではないかと考えています。 こうした経過をたどったわけですが、ここに当社の海外取引の実績と共に、私がよく受ける質問を踏まえて、注目しているいくつかの点をご説明申し上げます。 相手国別にみますとドイツ、イタリア、イギリス、フランス、スイス、ギリシャ、ホノルル、グァム、メキシコ、オーストラリア、サウジアラビア、フイリピン、マレーシア、台湾、中国大陸、香港ローカルからの受注を頂き、製品輸出しました。 エリア別にマーケットを分類すると、欧州6カ国、米州2カ国、アジア5カ国、中近東1、オーストラリアとなり取引相手国が15カ国に渡り、顧客数は20を越えました。 テストオーダーのみで終わった取引もあれば、リピートが続く取引も有ります。 特に欧州は好評を得たようで、ドイツの顧客など既に3~4度リピートを受けて安定した取引に育ってきています。 引き合いは、直接オフィスに来る場合や、ファックスでの照会など様々です。 オフィスでサンプル指示の細部まで詰めた案件の成約率は高い方だと思います。 今期に限って言えば、取引量も海外での取引が、大洋手袋製造有限公司本体取引を上回りました。 並びに日本国内向け取引においても、大洋手袋製造有限公司社によるアパレルブランドのOEM生産や企画提案商品と、大洋ハンドバッグによる国内メーカー向け取引及び商社取引業務が急増した為に生産キャパが足りず、昨年夏から段階的に生産ラインの拡大を図りました。 徒手空拳、暗中模索のなかから開拓を始めた海外市場ですが、まずまず良いスタートを切れたと白負しています。 どのような取引にも対応していく白信もつきました。 海外の顧客の良い所は、デザイナーを香港まで派遣させる点です。 フランスやドイツ、英国の顧客は、バイヤーがデザイナーを連れて来訪します。 おかげでプルミエやリネアペレの最新の情報がヨーロッパのデザイナーの目を通して、我々の元に届けられます。 そのトレンドをどういう風に掴み、どのようにバッグのデザインに表現するのかを具体的な商談を通して、当社の企画開発室に吸収出来ます。 そして彼らには日本での流行しているアレンジや素材、技巧などと香港・中国における生産現場の実情を提供出来るのです。 これは私自身大変勉強になりました。 IT革命の時代の到来がうたわれていますが、情報技術の革新的な流通とはこういう事をいうのでしょうか。 もちろん、当社は法人を4社にわけ国内と海外の数カ所の拠点で企画、製造、貿易、販売の業務についていますので、インフラのハード面においては、もっと早い段階から、連絡やデータはパソコンやインターネットを利用しています。 又現物の移動もクーリエで土曜日の昼に中国工場で集荷したサンプルバッグは、月曜日の朝には東京支店に到着します。 韓国から朝のエクスプレスで出た生地見本は夕方には香港オフイスに到着して色確認出来ます。 全ての流れは迅速な世界です。 但し、ソフト面において、デザインワークやリサーチデータなどを世界の舞台でやり取りする為には、いくつかのハードルがあります。 パターンや素材に関する基礎知識と語学能力という最低限の条件と、当方の情報発信能力です。 相手にとっても魅力的な情報源であることが大切だと感じます。 中国工場に関してどのようなイメージを持っているでしょうか。 まず連想されるのが「豊富な労働力、安い賃金」ではないでしょうか。 これを利用する為に日本の産業界において中国への進出ブームが起こったのが10数年前です。 しかし、それから10数年間が過ぎました。 成長期にあるアジアでの1年間の変化は非常にスピーデイーです。 10年も前とは比べ様のない程変わってきました。 最近の中国に来訪経験の無い方には認識を新たにして頂く必要があります。 今や中国は世界の製造業の拠点です。 テレビ、洗濯機、冷蔵庫、エアコン、電子レンジ、オートバイ等、これら全ては世界シェアトップを占める中国製商品です。 テレビで言えば、1999年の世界のテレビ市場はユ億1787万台だったが、実はそのうちの4割が中国で生産されているそうです。 日系の大手で言えば、松下、東芝、三洋、三菱の4社が、テレビの主要生産拠点を既に日本から中国に移しています。 ここで、廉価普及品を想像されると思いますが、現実は違います。 生産の中心は最新型の大画面平面ブラウン管テレビです。 ソニーのベガも98年から上海で生産を開始し、しかもおおよそ8割が日本市場へ輸出されるのです。 そのソニー中国の代表の方が、「中国だからこそ優秀な人材が集められる。 他の国ではだめだ」と断言しています。 日本では、中卒の7割、高卒の5割、大卒の3割が3年以内に離職するという七五三離職の統計が物語る様に、新しい世代の若年労働者が熟練職人に育つ期待は持てません。 個性が光り、デザインワークの世界で花開く時代の展望が見えても、それを製品化する製造の担い手は不足し、産業として成長する余地はありません。 ユニクロの例をご存知の通り、量産するには、今や中国だから品質を上げることが出来る時代になったと言えます。 縫製業のような労働集約型産業はなおさらではないでしょうか。 もちろん今でも、語学能力や管理体制の不足でろくに指示も伝わらず、作る前から不良品と解るような生産を繰り返している工場もあります。 能力より人間関係で人事を進め、年々改悪していく工場も有ります。 しかし、時代を見据えて、現場が歯を食いしばって、何も無いところから世界最高水準まで築こうとしている工場も有るのです。 10数年の期間とは、そういう大きな変化の期間であったと思います。 常に現在の、今の、世界を理解する事が重要です。 当社が始めて直接自社工場を中国に開いたのは1989年で、今年2001年で丸12年です。 中国進出企業としては古参の部類です。 石の上にも3年とは言いますが、始めは戦いというべき惨状でした。 数々の勉強を繰り返し、93年には工場を丸ごと換えて、現所在地で再出発し、やっと真に人事権、予算を含む実質的経営権を掌握し、日に日に改善をすすめ、工程管理を導入し、成果主義給与制度を組み入れ3年が過ぎた頃、ようやく基礎が出来上がりました。 97年から新人事制度を導入しQC運動はじめ、工場の増床と生産ラインを拡大し、98年には班別ミス不良撲滅運動を展開し、不良品率のコンマ以下ガイドを設定しました。 それも、もう数年前です。 この頃から生産資料、存庫状況、生産ライン進歩を毎日オンラインに乗せることに成功しました。 12年の歩みの中で最近3~4年の数年間に今までの血に汗滲ませた皆の努力の成果が急速に現れてきたと思います。 組織としての管理手法が定着し、品質、納期とも安定しました。 職人は、経験を積み重ね、今ではモノ造りの喜びに目覚めています。 例えば、本ヌメゾッキ2000本なんてオーダーを嬉々として、挑んで作りたがる職人が育ってきています。 技術レベルの進歩はなかなかのものです。 大洋工場の現況ですが、この一年間ずっと毎日フル稼働です。 昨年の10月初めに今年の1月末の旧正月前に受注がフルになってしまい、急遽秋の香港展示会は休止を決定し、一時的に新規のご商談をお断りし、工場での生産ラインの拡張、人員教育と品質安定に注力した次第です。 現在では工場総従業員数490名で、4年前の2.5倍の生産キャパを備えている計算になります。 それでも今年の2月3月の受注は1月末に埋まってしまいました。 大洋ハンドバッグでは革素材から布帛まで大抵の素材を取り扱います。 素材はイタリア、日本、韓国、台湾、中国生産分など、最適地より調達します。 当社の社長の方針というか趣味で、設備はまさに最新鋭です。 平ミシンはブラザーかジュウキ製で、アームはセイコーです。 ハイポストミシンも8台揃えています。 大型のコンピュータミシンが2台に刺繍ミシンまで有ります。 裁断機はクリッカー8台がイタリア製、大型4台が台湾製、革漉機15台はイタリア製と日本製です。 余談ですが、日本人宿舎には昨年から衛星放送でスカイパーフェクTVとNHKが入り、デジタル平面テレビでDVDを見て暮らしています。 振り返れ ば10年前、工場退社と共に自家発電が止まり、電気の無い暮らしからスタートした現地駐在員の暮らしも随分変わりました。 かつての現場は日本で暮らしている方には想像を絶する世界でした。 しかし石の上にも3年、変革の意思を持ち続ければ、本当に築いていけるものです。 父親である当社の社長は、89年から中国工場を設立し、同時に自ら現地に赴きました。 それから10年、ひたすら盆暮れ正月を問わず、働いています。 俗に言う仕事人間です。 言葉通り、現地に入り込んで、現地スタッフと同じ釜の飯を食って、朝から晩まで寝食を共にしています。 これは、中国に来訪経験を持つ方ならご理解頂けると思いますが、この発展途上にあった中国の現地で10年間、同じ釜の飯を食べるというのは、決して誰にでも出来る事ではありません。 水も電気も無かった当時は、碁らしていくこと事態がサバイバルゲームに近かった時代です。 しかし、おかげで今の大洋工場が在るのだと思っています。 今の大洋工場の中核を担う役員や中堅幹部は、その頃、うちの社長と辛苦を共にした連中です。 半年や1年で日本へ逃げ帰って行く職人やスタッフをよく見ていた中国人にとって、自ら現地で働く社長は随分奇異に写った事でしょう。 おかげで私が着任した時には、彼等自身が「社長とは、心で繋がっている」と答えました。 これは財産です。 ただ、私が着任時に感じたことは、百人単位で人が集まる組織にしては、管理体制が甘く、組織効率が悪い点です。 中国では、今でもこの人海戦術を中心にしている工場が多いのも事実です。 私は、銀行職の時、三洋電機の住道工場の職域を担当していた経験が有ります。 300人、400人という人員は、日本で言えば大企業です。 故に日本企業での管理手法を段階的に当社中国工場に導入しました。 反発も大きかったですが、そこはひたすら説明して、実践して見せました。 「心が繋がっている」幹部もいたおかげで、ゆっくりと定着しました。 大洋手袋製造有限公司では、東京でも大阪でも海外でも業務についています。 企画でも、製造でも、販売でも、仕事の担い手は人です。 これは、どこの世界でも同じです。 この人材が、財産となる組織が、基本的に王道であると思っています。 以上、当社の歴史を振り返りながら、つたない私感を述べさせていただきましたが、業界発展に少しでもご参考になれば幸いです。 <月刊B.L.F. ぶるふ ’01年NO.3> |