記 事

輸出業から輸入業へ、
そしてメーカー部門設立
「海外生産だから云々は言われたくない」



海外進出、一頃しきりに口にされた言葉だが、消費の低迷や円安傾向もあって、最近はブームを越えた印象もある。
とは言え、商社等を通しての輸入品は、国内市場の半数以上を占めるとも言われている。
そんな中で、中国・深センに工場を持ち、オリジナルブランド製品の日本での販売を展開する大洋手袋製造有限公司=大阪府堺市浜寺南町3-10-1。
神谷勇社長=にスポットを当て、神谷勇社長にインタビューした。

大洋手袋製造有限公司は、主にバッグ類の輸入販売を手掛けているオーシャン貿易商会(株)を母体にして、1993年に設立された。
そのいきさっは「初めは輸出業からスタートしたのですが、いわゆるドルショック後に輸入に切り替え、ファッション雑貨全般の輸入販売を手掛けていましたが、徐々にバッグ類が中心になっていきました。
そのうち企画ものの注文が増え始め、それならば企画製品の販売会社を作ろうと、それまで生産依頼していた韓国、香港の業者と3社で'89年に中国に工場を設立しました。
主に生産依頼していた韓国の工賃が上がり、採算が取り難くなったことも背景にあります。
ただ国民性の違いと言いますか、韓国、香港、日本の共同出資ですと、なかなか意見の調整がうまく行かず、結局株を買い取り、100%出資に切り替え、'93年に国内輸入販売会社としての大洋手袋製造有限公司を設立、再スタートしました」(神谷勇社長)。
中国工場は、香港に事務所を置く大洋手袋製造廠有限公司が運営しているが、貿易業という商社からメーカーへの進出と言うことで、生産技術的な面で懸念が持たれるが、それは韓国のメーカーとの合弁という形でクリアできたようだ。
もっとも再スタート時には日本から3人の職人を連れていき、技術指導に当たったが「最初はその人達にまかせようと思っていたのですが、技術はあっても管理能力が乏しく、組織の見直しを図」り、現在はご子息の神谷高締氏が総経理として香港に常駐しており、「日本の二一ズにあった製品を生産し、日本人の価値観に対応できる品質を維持するには、日本人が常駐していなければうまくいきません。
幸い幹部には10年来勤務している人もおり、現地でも優秀な商品を作るメーカーという評判も受け、2年前には工場を1.5倍に拡張できました。
当初は450人規模の生産を考えていたのですが、技術の向上に伴い、生産力も上がり、現在の390人の人員を増やす必要もなくなったので、それだけ競争力も付いてきました」と、総経理の神谷高締氏は言う。
中国国内で、紳士服の一流ブランドとして知られるサンランドのバッグ類の生産依頼を受けているのも、技術力の確かさの証で「高級品も扱える体制が整っている」。



現在展開しているオリジナルブランドは、合弁時代に打ち出した息の長いミラノ・ハウスの他マダム.エツコ、エリーゼ・トランド、それに新たに加えられたリニューの4ブランドで、それぞれのブランドを年齢別、用途、売り先などきめ細かなコンセプトで、ブランドの明確化を図っているが、生産に当たっての基本姿勢は「不良品は一本も出さない」ということ。
「人によっては、海外生産なのだから1%程度の不良品は仕方ないという人もいますが、海外生産だからどうのこうのと言われたくないので、納期管理と品質管理には充分気を配っています。
幸い不良率はコンマ以下ということが、得意先にも理解されるようになりました。
また、例えば主素材の厚みが違ったら即芯地で対応する、あるいは箇所によって芯地の厚さを変えるなど、きめ細かに対応できる体制が整っていますので、それが海外生産でも安心して扱えるといった、得意先の信頼に結びついていると思っています」。
現在ナイロンを中心とする化成品をメインにしているが、「2~3年前まではオール皮革製品を中心にしていましたが、マーケットの変化で、製品内容も変化させています。
メーカー部門を発足させて1O年、今はどんな素材でもこなせるようになり、ハンドバッグ類に限らず、キャリーバッグのようなものも生産できるようになっています。
オリジナルブランド品の生産の他、日本ブランドのOEM生産も行っていますが、得意先の要望をなんでもこなせるという事は、メーカーとしての一つの使命でしょうね」とも言う。
毎年香港で開催されるレザーフェアに参加しているが、これは「日本企業に認知してもらうための宣伝も一つの目的でした。
これまではメーカーとしての基礎作りに専念してきましたが、中国に工場を造って10年、今年をスタート元年として捉え直し、日本国内ばかりでなく海外への販売にも積極的に取り組んでいくっもりです」と言う。
現在中国で生産された商品のほぼ100%が日本輸出だが、「アメリカやヨーロッパ、台湾、韓国の他最近中近東にも足掛かりが出来ましたが、それでも全体から見ればまだわずかで、正直なところ、親会社である大洋手袋製造有限公司だけに依存していては苦しい。
価格競争にも充分対応できる体制が整ってきましたから、将来的には日本50%、その他の海外50%に持っていきたいですね」(神谷高締氏)。




ところで、これまで輸出業から輸入業へ、そして海外に工場を設立してメーカー部門を確立すると、かなり荒波を乗り越えてきたという印象を受けるが、その中で一番苦労したのが「いわゆるドルショックが最大のショックでしたね。
いきなり相場が2~3割変動しますし、その後は香港、台湾、韓国との競争も激しくなり、輸出が難しくなり、輸入へと切り替えていったのですが、この時が一番苦労しました」。
素人目には輸出も輸人も貿易には変わり無いと見えるのだが、「輸出は相手側の希望する商品を探し、集めれば済みます。
極端に言えば電話一本あれば出来ます。
それに対して輸入は資本もいりますし、それに国内のマーケットリサーチもきっちりしなければ大損する危険性も大きい。同じ貿易でも輸人と輸出では大きな違いがあります。
ただどちらもブローカー的な側面がありますから、いつかはメーカーになりたいという気持ちはありましたね」。
ただ貿易業という商社体験は「大きな流れを見失わない、あるいは戦略の先を見る目といったものを身に付けましたから、メーカーとしても大いに役立っています。
時代の大きな流れに逆らってはやっていけませんし、それが見えますので、不況云々されていますが、先行きにも悲観していません」。

<月刊B.L.F. ぶるふ 99年NO.3>
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